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快適な眠り・安眠を提案する菊屋「安眠.com」

第一章 どうぞ蚊帳の中へ 

蚊帳の外から 蚊帳の中へ

かつて、日本の夏の風物詩として、どこの家庭にもあった蚊帳が、その姿を消し始めたのは、昭和40年頃からであった。蚊帳がなくなり、残ったのは「蚊帳の外」という何ともさみしい言葉だけ。昭和40年以降に生まれた多くの人は、蚊帳の中の温もりを知らない。また、蚊帳を経験したことがある人々も、だんだんとその記憶が薄れてきている。

蚊帳は平和の象徴である。一網打尽で虫を殺してしまう、強力な武器(殺虫剤)を使うことなく身を守るのが、蚊帳。共生の精神の見本のような存在である。私は、どうも家庭に蚊帳が見られなくなった頃から、人々のつながりが希薄になり、多くの人が「蚊帳の外」に放り出されてしまっているように思えてならない。

日本においての蚊帳の始まりは、紀元五世紀前後といわれている。そのころ、応神天皇が、巡幸の際、「賀野の里(かやのさと)で御殿を作り、蚊帳をはった」と、播磨国風土記に記述がある。

社会科の教科書では、蚊帳は日本の物ではなく、唐の時代に大陸から渡ってきたものだ、とされている。

遣唐使たちによって奈良の都に伝えられた蚊帳は、綿やシルクでできた無色のものだったようだ。その蚊帳が、唐から伝えられた手法で作られ、「奈良蚊帳」と呼ばれた。

御帳台(みちょうだい)

そして平安時代になると、貴人の休寝用に天蓋付きのベッド「御帳台(みちょうだい)」が誕生しました。この御帳台の床床の上には畳が敷かれ、畳の上には、中敷の畳・表筵(おもてむしろ)・龍鬢地鋪(りゅうびんぢしき)・茵(しとね)が重ねられた。このようにして日本の安心・安眠空間が進化していった。外敵から身を守るだけでなく精神的な拠り所を求めた経緯と言えよう。

室町時代に入ってから、売れ行きのよい奈良蚊帳に目をつけたのが、近江(現在の滋賀県)八幡の商人だった。高温多湿な日本の風土に合わせ、材質を麻に代え、売り出した。その蚊帳は評判を集め、「八幡蚊帳」と呼ばれるようになった。麻の糸は、湿気が十分でないと縦糸が切れやすいため、琵琶湖の湿気が得られる近江の地は、蚊帳を織るのに適しており、生産が根付いのだ。そして、吸湿発散性に優れた麻の素材は、蚊帳を付加価値の高いものに変え、蚊帳の需要を喚起することとなった。

この八幡から出た西川仁右衛門が1566年に、蚊帳・生活用品販売業を始め、蚊帳を普及させた。当時の蚊帳は、上流階級の贅沢品で、戦国武将のお姫さまの輿入れ道具としても使われた。米にして2~3石もする高級品だった。

蚊帳販売の第一人者である西川家は、蚊帳の改良に力を入れ、1620年代の寛永年間には麻の生地を萌黄色(もえぎいろ)に染め、紅布の縁をつけたデザインの、「近江蚊帳」を販売。さらに西川家は、八幡で、十七軒を束ねた講(現在風にいえば、蚊帳商工組合)を結成。同じ近江の長浜でも「浜蚊帳」の生産が始められ、近江は蚊帳の一大産地になり、蚊帳は日本の生活に根付いていったのだった。

このように、日本では、蚊帳は、奈良時代に本格的に作られ始め、江戸時代には上流階級で人気を博し、明治から昭和三十年代ごろまでは、庶民の夏の寝具として親しまれてきた。しかし、その後、クーラーの普及、強力な殺虫剤の登場、住宅環境の変化等で、急速に蚊帳はその存在感をなくし、日本の家庭の風景から消されていくことになってしまったのである。

関西淡路大震災 新しいインターネット時代への黎明期

1995年1月、日本中を震撼させた阪神淡路大震災。朝早い時間に起きた地震に、自然の猛威を恐れた。

それでも、人々は一生懸命、お互い助け合い、励まし合いながら、生きている姿をテレビ越に見ては心を打たれた。

そして、あの情報手段がことごとく失われてしまった中、神戸市のある職員が、被害の様子をデジタルカメラで撮り続け、それをインターネットで世界に発信し続けていたことを知った。
新しい時代を感じた。ウィンドウズ95が発売されたこの1995年、私も情報発信者として、この新しい道具を活用したいと直感したのだった。

そして翌1996年、私の40歳の誕生日である5月22日、万を持して、ホームページを開設した。ヤフージャパンと同じ年にanmin.comを取得し、先ずは、枕選びのホームページを作った。

菊屋 安眠コム22周年

この時、まだ蚊帳は登場しておらず、「あなたにぴったりの枕選びのホームページ」ということで、インターネットの世界にデビューしたのだった。それは、父亡き後、お家再興を目指して家業のふとん屋を継ぎ、18年が経過した時であった。

 

農家と商売屋は嫁のきてがないといわれていたが、おかげさまで、34歳の時、縁あって隣の隣の隣のまたその隣のおもちゃ屋の娘だった家内と結婚でき、あれよあれよと子宝に恵まれ、38歳で第3子として長男を迎えることとなった。

ここまでくると、私の演じる役割、店の役割も、もはや背水の陣を敷くことを余儀なくされていた。長男の誕生を機に、

「今までのようにただふとんを売っているだけではいけない」と、「皆さまの役に立つふとん屋」への転換を図るべく、当時まくら博士として著名だった加藤勝也氏を磐田にお招きし、「あなたにぴったりの枕の講演会」を開催した。ふとんを売るのではなく、良い眠りを提案することをお店の使命と掲げ、それを磐田市民にアピールした第一歩だった。

まくら博士 加藤勝也氏

1980年代の終わり頃、枕ブームの火付け役として君臨していた、加藤勝也氏は、これまでの枕の常識を覆す枕革命を興した人物である。

加藤氏は、「枕の高さは、自然な形で立った時の、頸椎の凹み具合で決めるべきだ」という加藤理論を樹立させ、その理論に則った数々の「加藤式枕」を発明していった。

「加藤式枕」は、これまではこぶし大とされていた8~10センチの枕の高さを、2~4センチにまで低くした。この加藤式枕により、多くの人たちの肩こりは軽減された。そして、腰痛や不眠の改善にも枕が貢献しているということが、社会的にも認められるようになった。

当時加藤氏は、「たかが枕されど枕」、「枕は小さな巨人です」などの名言と共に、新聞や雑誌、テレビにも取り上げられ、「枕博士」の名前まで与えられていた。

その加藤氏が、私の大学の先輩であったこと、そして長男が誕生した年に大手寝具メーカーを還暦で退職され、自由の身であったことも重なり、快く磐田での枕の講演会にお越しいただくことが出来たのである。

この講演会の内容は、インターネット上に載せるには十分すぎるほどの価値があった。

私は、「25種類の枕とあなたをマッチングさせる」というフローチャートを描いた。そして、それを加藤氏に監修していただき、「インターネット上でだれもが自分に合った枕を探し出せる」という仕組みを構築した。その時同時に、フリーになった加藤勝也氏の考案した新しい枕も、問屋を通さずに販売することを許され、インターネット上に登場させることもできた。

阪神淡路大震災の時の、あの神戸市職員の細かな情報発信と同じように、世界中のあらゆる国の人々に、この枕の情報を発信できるようになった、ということに感激し、これまで半径5㎞だった田舎町のふとん屋の商圏を、世界にまで拡大できるのだと、私は、夢と希望をもってホームページづくりに精を出したものだった。インターネットならではのインタラクティブ(双方向性)な特徴を活かし、ネットの向こうのお客様と「枕なんでも相談会」を開いたり、購入後の枕の具合をお聞きしたりと、寝る間を惜しんでパソコンに向かっていた。

そんなある日、枕を購入してくださったお客様から、「枕の調子はいいよ。おかげで肩こりが楽になった。ところで、そちらでは蚊帳は扱っていないですか?」という問い合わせをいただいた。「蚊帳を探しているのだが、どこにも売っていない。百貨店に問い合わせても扱っていない。なんとかならないですか。」と。

これが、『蚊帳』のはじまりだった。

なるほど、ホームページ上に蚊帳を吊ってみると(扱ってみると)、いかに多くの人が蚊帳を探しているかを知り、驚いた。蚊取り線香を使うとのどが痛くなるため、蚊帳を探していた方。お子さんが生まれ、殺虫剤を使いたくない新生児のお父さん。昔から使っていた蚊帳が古くなり、代わりを探している方…様々な方が、インターネットの検索機能を使って、わがホームページを見つけ、蚊帳を買ってくださる。

ただし、昭和30年代の蚊帳をそのまま持ってきても、現代生活には不都合なことが多くあり、「蚊帳を売る」ということは、「それらを一つ一つクリアしていく」ことでもあった。

現代人の体格に合わせて寸法を取った、和室用蚊帳。ベッドでお休みの方が、しゃがみこまなくても楽に出入り出来るよう、合わせの出入口を付けた、ベッド用蚊帳。「布団の下からの虫の侵入を防ぎたい」というお客様の要望から作った、六面体のムカデ対策蚊帳。「洗える衛生的な蚊帳を」という要望には、ここ静岡県西部の伝統的特殊技術、「カラミ織」という網目のずれない織り方の生地を使うことでお応えした。アレルギーのある方からの要望で作った、麻や綿などの天然素材の蚊帳。全て、お客様の声から生まれたものだ。さらに、これらは、使われた方々から提示された様々な改良点に応えていくことによって進化し、多くの皆さまから喜んでいただける蚊帳へと成長していった。

 

十年前、インターネットを取り入れる前の私からは考えられない現実が、そこにはあった。

目に見えない大きな力が、蚊帳の普及と質の良い眠りの提案をする私を、後押ししてくれている気がしていた。そして、その力に応えるのが使命だとも思った。

インターネットという道具は、私に「講演」という活躍の場も与えてくれた。「今にもつぶれそうなふとん屋のおやじが、インターネットを使って夢と希望が持てるようになった」と、企業や経済団体など、いろいろなところで話して回るようになった。2001年、蚊帳の最盛期である6月から8月にかけては、マスコミからの取材も殺到し、またたく間に蚊帳の波紋は広がっていった。この広がりによって、蚊帳を知る世代の人たちの、懐かしい記憶を呼び起こし、そして、多くの、それまで蚊帳の魅力を知らなかった世代の人たちが、蚊帳の良さを知ることになっていくのだった。

項目3 アフリカの蚊帳事情

インターネットの黎明期に一大奮起し、鮮やかに人生の場面展開を成しえたことも、シナリオ通りかもしれない。

まくら博士の加藤勝也氏、インターネットをすすめてくれた同級生たち、そして、ネットの向こうからの、蚊帳のご要望。すべての登場人物に感謝をしたいと思う。

(インター)ネットでネット(蚊帳)が蘇り、私も店も救われ、蚊帳の専門店として自他ともに認められるようにもなった私は、「これは、恩返しをしなければ罰が当たる」と考え、「蚊帳で救われた身の上ならば、蚊帳で恩返しを」と、アフリカに蚊帳を送る運動を開始した。

 

驚いたことに、私の「アフリカの子供たちを救いたい」という思いを実現するためのシナリオも、そこでの登場人物も、手配されていたようだ。

ある日、元国連職員で、タイに蚊帳工場を立ち上げた、オランダ人のマルセル・ダブルマンさんから連絡があった。私の、「(インター)ネットでネット(蚊帳)が蘇った」、「蚊帳は、アフリカのマラリア対策に最も重要な役割を担っている」などの新聞記事を読んだダブルマンさんの協力で、マラリア対策用の蚊帳をバンコク経由でアフリカに贈る術を見出すことが出来た。

 

また、2004年の秋。もうすっかり蚊帳の季節は終わった頃、長崎県の古田望美さんという若い女性から、「蚊帳が欲しい」と注文をいただいた。アフリカのカメルーンに、助産師としてボランティアに行くことになり、「マラリア対策として、ご自分用の蚊帳を購入したい」とのことだった。

「これで、アフリカへ蚊帳を贈りたいという思いが実現する。」

翌2005年、カメルーンの病院でがんばっている古田さんへのエールを兼ねて、古田さんの勤務されるカメルーンの病院に、タイのバンコク経由で、蚊帳100張を贈らせていただいた。

カメルーンの病院に蚊帳を寄付
カメルーンの病院に吊られた蚊帳


古田さんからのお礼の手紙は次の通りである。

昨年2004年9月のことです。カメルーンへボランティア医療援助として出発する事が決まり、マラリア予防の為に「蚊帳」を探していた所、こちらのホームページ(安眠コム)を見つけました。早速マラリア対策用蚊帳を1枚注文した所、菊屋の三島さんよりお電話がありました。今回なぜこの商品を購入したのか質問されたので、カメルーンに行く経緯をお話ししました。三島さんは、以前からマラリアで死んでゆく子ども達の為に何かしたいという希望がありましたが、具体的にどこを通して援助してよい、分からなかったそうです。そこで、今回私が行く村へ、ぜひ援助したい、との事でした。これが、三島さんとの出会いです。

私が向かったのはカメルーンの西部に位置するフォンテム村という自然豊かな所です。そこにある病院の産婦人科で助産師として働いていました。この村でマラリアは一般的な病気でした。マラリアの事を簡単に説明しますと、ハマダラカという種類の蚊に刺される事によって起こる病気で、血液が破壊され、発熱や貧血をおこし、適切な治療が遅れると、命取りになる病気です。産婦人科では、妊婦にマラリア予防薬を処方したり、また、マラリア感染者に対しては、入院をすすめ、点滴などで治療していました。妊婦がマラリアにかかると、流産、早産、死産を起こしやすいからです。実際、マラリアの為に赤ちゃんを亡くしたお母さんも見てきました。とくに、小さい子どもに関しては、大人よりも重症化が早く、亡くなる事も多いです。しかし、死亡率を上げているのは、村の環境にもあります。たとえば、病院が少ない事、発見が早くても病院まで来るのに時間がかかる事、お金がないために病院に行くのをためらう事、などです。道は日本のように舗装されておらず、また一般の人達は車など持っていません。ある日、赤ちゃんの熱が出たというので、お母さんが抱っこして村から8時間かけて歩いて病院に到着しましたが、もうその時には赤ちゃんは死んでいました。

ところで、村の人達は、マラリアに対して恐怖感をもっているので、彼らなりに工夫しています。たとえば私が見たのは、夜、蚊に刺されないように、暑い日でも長袖と長ズボンのパジャマで寝ていました。蚊帳を持っている人はほとんどいませんでした。病院では、新生児用のベッドの上にあみを張って、赤ちゃんを蚊やハエから守っていました。カメルーン政府も、10年ほど前から、全ての妊産婦に、無料で蚊帳を配布する政策をとり始めたようですが、私達の村には、まだ行き届いていませんでした。

そこで三島さんは、ユネスコを通して、マラリア対策用の蚊帳を100枚、フォンテム村に寄付してくださいました。三島さんは以前、マラリアで苦しむ人達のためにユネスコを通してお金を寄付していたそうです。インターネットで蚊帳を取り扱っている中で、海外の蚊帳メーカーとも仲良くなり、そのうちの一人がタイランドのメーカーの社長さんでした。彼はもともと国連の職員で、世界のマラリア事情に対して蚊帳工場を立ち上げました。三島さんとこの彼は、蚊帳を通しての世界平和という点でお互いに結ばれ、今回の寄付に至ったそうです。私が帰国する前の2005年6月1日、この思いがけない贈り物には、病院スタッフ一同大喜びで、現地の助産婦の1人は私を抱きしめてくれるほどでした。産婦人科のベッドの上に、蚊帳が張られました。そのおかげで、お母さんと赤ちゃんが同じベッドの上で、安心して寝られるようになりました。また、蚊の多い隣村にもこの蚊帳が支給され、現地の人の生活に役立っています。

三島さんが願っている事。それは、「安心して眠る事によって、子供たち1人1人がそれぞれの才能の花を咲かせられますように・・・」 この蚊帳のおかげで、アフリカにいるこの小さな村の子供たちも救われ、それぞれの花を咲かせてくれる事でしょう。

2004年のインドネシア・スマトラ沖で起きた大地震の際には、現地へ向かう緊急支援部隊員用に、急遽、蚊帳の注文をいただいた。その時には、備蓄用としてどこでも簡単に設置できる、京都西川さんの蚊帳500張りを日本赤十字社に寄贈した。

2007年、京都大学の芦田譲教授が理事長を勤められるNPO法人:環境・エネルギー・林業・農業ネットワーク(EEFA)のご一行が、支援のため、マダガスカルに行かれた。その際、出発に先立って、マダガスカルのラヴァルマナナ大統領へのプレゼント用に、「菊紋和(きくもんなごみ)蚊帳」をお求めいただいた。私はそのお礼として、マダガスカルの病院に、マラリアから命を守るための蚊帳、300張を寄贈させていただいたのだった。

マダガスカル大使と
マダガスカルの日本大使と

 

 

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