蚊帳のはじまり
ある日の明け方にそっと、私は
ネットに 『ネット』 を乗せたのですよ
蚊帳の新商品を数多く開発し、インターネットを中心に全国的な支持を集める静岡県磐田市の寝具店・菊屋。社長の三島治氏は、蚊帳という伝統的な日本の寝具の「復活」に取り掛かった経験を、冒頭の表現で説明する。
三島氏が蚊帳にたどり着くまでの苦労は、並大抵ではなかった。
そして、蚊帳にたどり着いたその先も・・・・・。
三島氏が店を構える菊屋は、1R東海道線磐田駅の駅前商店街にある。
今日ではJリーグのチーム名にちなんで『ジュビロード』と呼ばれるが、その実態は全国の駅前商店街と同様に厳しい状況にある。
「私が幼いころは商店街も栄えていて、人通りも今からは想像できないほど多かった。菊屋という寝具店にぬくぬくと育ててもらったものです。ところが、東京で勤めた後でここに戻って来てからは、大型スーパーが駅前から撤退するなどの事情はあったにせよ、町がどんどん廃れていったのです」
三島氏は大学卒業後、東京の商社に就職。配属先のコンピュータ室でプログラミング言語などを学びながら、データが巻き取られた大きなテープリールを持って得意先を回っていた。
しかし、父親の死去・義母の再婚を機に帰郷を決意。
それはまさに、全国的に中心商店街の空洞化が始まったのと時期を同じくしていた。
まちのふとん屋時代
店を継いだ若者にとって、「自分が育ててもらった店を、昔のように繁盛させたい」との思いがいかに大きく強かったかは想像に難くない。しかし、時代は少しずつ変化の速度を上げていった。
三島氏は、従来のようにただ店を構えて客を待つのではなく、積極的に営業活動を行うようになった。
顧客が蚊帳を教えてくれた
三島氏が蚊帳を取り扱うようになったのは1996年。
自店で取り扱う枕や寝具を紹介するホームページを立ち上げたのがきっかけだ。
その当時、インターネットは得体の知れないもの。あまりに過大なエネルギーを注ぐことにプレッシャーを感じる場面もあつたとのことだ。
三島氏は、「ネットの仕事は朝の九時まで」というルールを自らに課した。
そんな時、インターネット経由で枕や寝具を購入した顧客から、蚊帳について問い合わせがあった。
蚊帳はすぐに取り寄せられるアイテムの一つ。ある日の明け方、静かにネット上に『ネット』の紹介を載せたのも、その顧客への思いからだった。
顧客の求めにどこまで応えられるか
最初は 「そっと」 アップした蚊帳への注目度は、日を追うごとに高まっていった。
三島氏は取り扱うようになって、「蚊帳」という字を読めない人が大半であることに気付く。
それなのに「蚊帳の外」という言葉は生き残つている。そこに疑問を持った。
そして 「蚊帳は歴史の中で消えていく運命にあるのだろうか」と思った。
しかし、蚊帳は決して死滅する運命ではなかった。
「小さな子供がいるので、できるだけエアコンを使いたくない」という人。
アレルギーやぜん息のため、できるだけ化学的なものを住空間に入れたくないというお客さま。
そんな方々がどんどん当社のホームページを通して『蚊帳の中」に戻って来るようになった。
蚊帳の復活とさらなる進化
寄せられたニーズを見て、蚊帳のすばらしさに私自身が驚かされたほどです」
蚊帳には、殺虫剤を使わないことや、生地そのものの蒸散作用でエアコンを使わなくても内部の気温を低くする効果がある。
ほかにも、家族が一つの空間に集って穏やかな夜の時間を過ごせるなど、精神的なメリットも生み出す。
「環境に優しいばかりか、その心理的効果は、果ては世界平和にまでつながっていくのではないか」。
三島氏の中で、そういった眠りと蚊帳に関する哲学が、徐々に明確な形となっていった。
「夏休みにおばあちゃんの家で入った蚊帳」といった、薄れゆく記憶に郷愁を感じる人も少なくなかったのだろう。
そうして蚊帳の売れ行きは順調に伸びた。
それに伴って、顧客からの問い合わせも増えていった。
その中で、「ベッドでも使える蚊帳はないのか?」という問い合わせがあった。
三島氏は早速、カバーなどの縫製を外注していた地元の業者に依頼してベッド用の蚊帳を開発した。
「蚊だけでなく、ムカデなどの害虫が入ってこない蚊帳はないの?」という要望に対しては、五面体の蚊帳に底を付けてジツバーから出入りする「ムカデ侵入防止蚊帳」ともいえる新商品を開発した。
この開発では、地元の縫製業者から協力を得た。
さらには、「洗濯できる蚊帳が欲しい」との根強い要望があった。
古来、平織りでつくられた蚊帳は水洗いに弱い。そこで平織りを使わない蚊帳はできないかと考えた。
そこで頭に浮かんだのは、磐田近郊で盛んだった遠州別珍などの織物。なかでも注目したのは、静岡名産のシラス漁に用いられる綱や、米の炊飯や蒸篭に使われるカラミ織りの技法だった。
そうは言っても、製造を依頼した織物業者は簡単にはうなずいてくれなかった。
一介の小売店が生産者にモノを言える時代は、まだ到来していなかったのである。
それでも製造の承諾が得られた要因は、何年かかっても説得し続けた三島氏の意気込みにほかならなかった。
「お客さまに『つくってほしい』と言われて、できませんとは言いたくない。
何とかもう一歩前に進みたい」
三島氏の原動力は、売れなかつた外商経験の中で培われた「人に必要とされるからこそ発揮できるものを大切にしたい」という真撃な思い。
その歩みは、現実に生み出す商品とネットというバーチャル空間の間でスパイラルを描きながら、さらに進化を遂げていきそうだ。
「求め」に応えてこその「商い」
自店に戻られた後の営業活動について教えてください。
三島:「ごめんください」「こんにちは」と布団を担いで営業に回っても、そう簡単には売れませんでした。
寝具が売れるタイミンクは、人生の節目とリンクしている。出産、進学・就職、結塘、還暦…。
例えば進学に関しては、九州の太宰府天満営まで行き、その地の消印でDMを発送。無事合格すれば、いずれ故郷に錦を飾るべく「高級な布団を菊鹿から全国に発送します」と宣伝し、合格祈念のハチマキを受験生のいる家に配って回りました。
結婚間近という新婦の家には花を生けた花瓶を贈り、「結婚生漬を笑顔で送られますよう萄屋から全国に婚礼布団を発送します」と伝えたりもしました。
- それでも、やはり売れなかった?
三島:「これじやいかん」という思いはずっとありました。
自分にとって大切なのは、眠りに対する確かな理解だろうと考えました。
他店とは逢うしっかりした考え方と、それにマッチした商品。また「安かろう」ではダメという信念です。
「自分の仕事は良いものを提供すること」と考えるようになっていました。
学会に参加されるほど、勉強されたと聞きました。
三島: もっと勉強しなければならない。そう考えていた十数年前、出会ったのが『あなたにぴったりの枕』というフレーズ。
商売人の立場で 売りたいものをお客さまに売るのではなく、お客さまにとって本当に良いものを提供すべきだという商いの基本に気付いたのです。今、私が展開する蚊帳販売の横底にある考え方に、それはつながっています。
蚊帳から地球環境に広がる思い
萄屋の三島氏がインターネット販売を手掛けたのは1996年。
ネットがどんなものか、まだ世間が評価を決めかねていた時代である。
しかし、三島氏はインタラクティブ〈双方向性)というネットの持つ可能性に注目した。
ホームページを立ち上げる苦労は、「自分も昔はプログラムをやっでいたのだから」との一念で乗り越えた。
しかし三島氏の菓績を語る上で、これらの要素はただ表層をなぞるだけのものだ。
三島氏は信念を持っていた枕という「点」から、「面」としての敷寝具、そして「立体」の蚊帳へ。
さらには地域活性から地球規模での人類の生活環境改善まで、その思想は無限に広がっている。
そんなスケールの大きさにこそ、同社の事業の秘訣を見ることができる。
その思いが詰まった三島氏の著書『どうぞ蚊帳の申へ』(ブッキング〉や、ホームページは一読の価値がある。
以上 The Eagle 2007年7月号より