第一幕 三島屋ふとん店時代

第一幕 三島屋ふとん店時代

菊屋三島屋ふとん店戦後

生まれた時からふとん屋であった私の選んだ両親は静岡県磐田市で「三島屋ふとん店」を営んでいました。

実は・・・・菊屋100年の歴史を探ると、・・・カムカムエブリボディ、100年の歴史にならって、この物語の前は、このようになります。

 

背景・両親のこと

亡き父は祖父が若くして他界したため、医者になりたいという志を捨て、大阪の叔父の下で修行し、戦前から大陸との綿花の交易で財を成した大阪の叔父の下で修行をし、1951年(昭和27年)「三島屋ふとん店」をはじめました。
その時、大阪で知り合った母を連れて磐田に戻り、開業したのでした。

当時、三島屋ふとん店のキャッチコピーは「しあわせな夜をあなたに」とあちらこちらに掲げられていました。

 
物不足の時世、寝具(ふとん)は社会的な要請を受け、また化学繊維・マットレス等の出現は寝具の供給と需要を高め、三島屋ふとん店もどうにか軌道に乗った商いをさせていただいていました。その中で私たち三人妹弟も健やかに成長させていただきました。

三島屋ふとん店の時代昭和43年 亡き両親と妹・弟

 両親は夫婦仲良く、二人三脚で、三島屋ふとん店を運営していましたが、1971年(昭和46年)母は肺炎をこじらせ41歳の若さで他界。

 同時期、父も白血病と判断され死の宣告を受けていました。父は商売を続ける気力を失い店を畳む覚悟でいたらしいと、あとになって聞きました。

そこに出会ったのが義理の母。

父は義母と巡り合い翌年3月にスピード再婚をした。私は母と妹を迎え、やがて妹も誕生し、妹弟4人の長兄として幸せな家庭環境で少年時代を過ごすことができた。

義母が来てくれたおかげで、父だけの力では到底できなかったであろう。

再婚を期に、店舗を磐田駅前通りに移転した。店も私たち妹弟も、少年時代から青春時代をにぎやかに、明るく過ごすことができた。これも義母のおかげである。

あの父と義母の電撃的な邂逅は、あの世から夫と3人の幼い子供たちを幸せへと導いた母の想いの力であったのだろう。

義母は父に愛と勇気とチャンスを与え、父もしっかりそれに応え店を再興することとなったのです。

支店・営業所を設け、三島屋ふとん店は時流に乗って勢いのある店として、生まれ変わったのです。そんな中で私たち兄弟姉妹も再び、のびのびとした少年・少女時代を送らせてもらいました。

しかし、以前より白血病で死の宣告を受けていた父にとっては、当時の商売のあり方は違うと思っていたようでした。
実際に販売している寝具は、化学繊維、ウレタンマットレス、アクリル毛布などで、本当に良い「眠り」が得られるだろうか?

 そんあはずはない!と

父は亡くなる5年ほど前から インドより高品質の綿を取り寄せて 「本物ふとん」 を製造・販売をするようになりました。当時はオーガニックなどという言い回しはありませんでしたが、腰の強い頑丈な無農薬のオーガニックコットンでした。

1970年代に国鉄(=日本国有鉄道・現JR)がDiscover Japan と宣伝していたころ三島屋ふとん店(現・菊屋)は Discover SLEEP で立ち上がりその「本物ふとん」のPRにつくった貴重なテープが残っています。

「本物ふとん」への呼びかけ

三島屋ふとん店時代の本物布団

能力開発研究所

能力開発研究所

同時に父は、昭和51年に磐田の隣の浜松の地に「能力開発研究所」なるものを開設したのです。
 「能力開発研究所」では,誰もがそれぞれに天から与えられた特技(個性)を活かすべく天の声が聞き取れるよう、こころを空にすること、清い心で眠りにつくこと、そのための眠りにつく前の心構え、一日の終え方・はじめ方等、自然に抱かれる「眠り」の啓蒙活動が展開されたのです。

父の晩年の仕事は、ふとん屋ではなく、眠りと個性の発揮についての啓蒙活動であったと言えましょう。商売の域を脱して、そのような活動ができた父は幸せだったのだと思います。

私にとって、あこがれの父だったのです。


小学6年生の私と父・三島昇

 私も、父から、人は眠るのではなく、眠らされる存在だと教え込まれてきました。

次は 第一幕(補) 流れ流れて 福島へ 学生時代

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