100年の物語にカムカムエヴリバディ
菊屋の前身は三島屋ふとん店
菊屋は1951年に、父・三島昇(1930~1978年)が静岡県磐田市で創業した「三島屋ふとん店」が前身である。しかし、菊屋100年の物語はその前の代、80年ほど前に他界した祖父・三島忠信(1899~1942年)から始まっている。
創業者の昇は忠信の長男として昭和5年、中国の満州・青島で生まれた。
忠信が鐘紡の幹部社員として、中国大陸での半ば国策事業でった「在華紡」の拡大をしていたからだ。
戦前、繊維産業はかつての鉄鋼・現在の自動車に匹敵する基幹産業であり、鐘淵紡績は明治から昭和初期にかけて、国内企業売上高1位を誇り隆盛を極めた大企業であった。
大正末期の在華紡投資額は中国全体の30%ほどを占めていた。
祖父・三島忠信もその「先駆進出」の一翼を担っていた。
富国強兵・殖産興業政策の中で「糸が軍艦に代わる」産業構造の変革・強化の中で働いていた。親から子へ、子から孫へと、引き継ぐべき使命を認知しながら、三島のルーツを紐解いていきたい。
鐘淵紡績(鐘紡)で在華紡
1939(昭和14年)・鐘紡公大・中国張家口にて祖父・忠信<左端>
三島屋ふとん店を創業した三島昇は、父・忠信、母・まつのもと、中国・青島(チンタオ)で、3番目の長男として生まれた。(上の二人の姉は幼児で他界)
当時、祖父は鐘淵紡績(鐘紡)の在華紡の管理を担う仕事に就き、大陸での綿・麻糸の紡績の関係する仕事をしていた。
兵庫県神戸市長田区が本籍の忠信が、どうして静岡県(磐田郡)御厨村の袴田まつと夫婦になったか詳しくは分からないが、まつの兄・袴田岩雄(1893~1959年)が戦前に大陸との綿花の事業に乗り出し、大阪に本社を置く三和綿行を興していたことに関係づけられる。岩雄と忠信の関係が妹・まつとの縁を結んだのであろう。
鐘淵紡績(鐘紡)は1933年に青島工場を閉鎖している。その後、忠信は中国・内陸部にある張家口で鐘紡公大工廠の管理運営に携わっていたようだ。三島忠信一家は、1939(昭和14)年までは中国にいたようである。
大陸での三島忠信一家
三島忠信・まつ夫妻と5人の子供 於)中国・張家口
大日本帝国の時代、三島忠信一家は中国大陸で暮らしをして、昇(昭和5)、任郎(昭和7)は青島で、牧子(昭和10)、久治(昭和11)、尚子(昭和13)は内陸部の張家口で誕生した。(その他、夭折した信子、節子、興の3人も授かっていた)
鐘淵紡績(鐘紡)福島笹木野工場時代
福島・笹木野駅前にあった鐘紡笹木野工場で左より5人目が忠信
その後、昭和15年頃に三島忠信一家は中国張家口から本土に戻り、当時全国でも有数な生糸の集散地として商業が盛んな福島の笹木野工場の運営に就いたのだった。
福島駅から奥羽本線の次の笹木野駅前に鐘紡の工場があって、袴田家の面々も遊びに行ったと聞いている。
福島は生糸の生産地として栄え、明治32年には東北地方のトップを切って、日本銀行の出張所が開設された歴史をもつ金融の中心地でもあった。
そして、福島高等商業学校は大正11年全国で7番目の高等商業として設立され、優秀な学生を全国から集めていた。祖父・忠信は福島高商の学生を鐘紡に採り用いていたのかもしれない。
その福島高等商業、のちの福島大学経済学部に、孫の治が入学するようになったのも、「流れ流れて福島へ」の不思議な縁である。
もっとも、そのような赤い糸に操られている不思議なご縁を確認できたのはNHKの朝のテレビ小説・カムカムエヴリバディ(2021年10月~2022年4月)の放映が終わる頃であった。
太平洋戦争がはじまっていた1942(昭和17)年1月、忠信は43歳で他界し、まつは5人の子供を連れて、生家である磐田郡御厨村(現・磐田市鎌田)の袴田家に戻ってきた。
一方、当主である兄の袴田岩雄は大陸から、大阪での商いで不在であり、地主としての務めをまつが担っていた。
やがて終戦を迎え、昭和21年(1946)の農地改革で、不在地主の小作地全てと、在村地主の小作地のうち一定の保有限度を超える分は、国が強制買収し、実際の耕作をしている小作人に優先的に低価格で売り渡す農地改革でも、現存地主としてのまつの働きは袴田家の農地を存続せしめた。農作業のほか、お産婆の免許をも取得し、まつは「千両役者」と言われるほどの働きぶりであった。
かくして、6反ほどの田畑を耕作し袴田家の財産を守った。
大阪で父母の出会い
昭和25年頃、父母の大阪での恋愛時代
戦後の動乱期、昇は医師を希望し、旧制中学4年次(5年の卒業前に)で、慶応大学医学部の受験に挑戦するも失敗し、潔く、大阪の叔父・袴田岩雄の(株)三和綿行で働くことになった。
戦後も岩雄は、大阪で三和綿行の商いを続け、自分の三人の子供(顕、泰雄、修介)のほか、三島(昇)、日改(隆也)、三枝(高充)、田中(力)等親戚縁者の若者を雇用していた。
三和綿行の本社は大阪・心斎橋にあった。やがて昇は1950(昭和25)年に大阪蒲生町(京橋)の肥塚義雄の長女・泰子と出会い、5年後の昭和30年結婚する。
医師への道を断念した父・昇は、祖父・忠信の手掛けた「糸」に操られるように大阪へ行き、そこで母・泰子と出会ったのである。
肥塚家は播州・梶山肥塚和泉守の子孫
肥塚和泉守城址に立つ祖父・肥塚義雄(昭和40年)
文正元年(1466年)塚和泉守の書面
父方の祖父が神戸の出身で、大陸での仕事に就いていたのに対し、母方の肥塚家のルーツは鎌倉時代から続く武家の家系である。播州梶山城は肥塚和泉守として、数代にわたり居城した城であった。1556年、肥塚祐忠の代に、楯岩城の広岡五郎に攻められ、落城してしまったのだが、泰子の父・肥塚義雄はその子孫である。すなわち、祖父・忠信の本籍地と同じ兵庫県の播州のお殿様の家系であった。
母・泰子は肥塚義雄、達江の長女として昭和5年に誕生している。
二人三脚で三島屋ふとん店
父・昇は、祖母の故郷の磐田に帰り、昭和26年、三島屋ふとん店を創業し、泰子を迎える準備をした。
昭和29年には磐田市見付から中央町に店を移した。そして、昭和30年に結婚。翌・昭和31年に、ふとん屋の長男として治が誕生する。昭和33年に七軒町四つ角に店舗を移転し、そこで妹の京子、さらに弟の茂が誕生した。
このように、祖父が中国で手掛けた「赤い糸」に操られるように、昇は綿・絹・麻糸の紡績の世界に身を投じ、「ふとん屋」にたどり着いたのである。
昇と泰子は二人三脚で仲良く、三島屋ふとん店を切り盛りしてきたが、昭和45年、泰子が41歳の若さで他界する。
すっかりと落胆した昇だったが、横田智子と巡り合い翌年3月にスピード再婚をした。私は義母と妹を迎え、やがて妹も誕生し、妹弟4人の長兄として幸せな家庭環境で少年時代を過ごすことができた。
現在、父・昇の跡を治が【菊屋】で以て、引き継いで40有余年になるが、創業70有余年の菊屋には、祖父の代から、三島屋ふとん店誕生の布石が確かにあった。
三代にわたる麻・ヘンプの糸
やがて、国外にも菊屋ブランドとして打って出る時が来ていると感じる。100年にも及ぶ菊屋の歴史の新たな幕明けがここから始まろうとしているのだ。
ぐっすり眠って人生を輝かせよう!
祖父・忠信が中国大陸で活躍した時代から100年が経過。
親から子へ、子から孫へと、三代がそれぞれ、過去・現在・未来にわたって存在する「ご縁」を強く感じました。
「カムカムエヴリバディ!」 「Let’s Go To SLEEP!」をいたしましょう!